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【小池龍太】武蔵野、福島、山口、柏が生んだ日本サッカー史上最高のステップアッパー

【小池龍太】武蔵野、福島、山口、柏が生んだ日本サッカー史上最高のステップアッパー

  高校卒業後にイメージしていた自身の姿は、J1の舞台で活躍することだった。しかし現実は、アマチュア選手として生計を立てつつJFLでプレーすることとなった。「賭け」と捉えた自らのアクションを成功の形として手繰り寄せる。J1はおろか、ACLの舞台も経験し、海外からオファーが来るまでに成長を遂げた。「僕の人生は濃い」と語る小池龍太の成長過程とは。

毎朝校庭で中島翔哉とボールを蹴っていた日々

 1995年8月、東京都八王子市に生まれた小池龍太は4歳の頃にサッカーを始めた。近所に住む1歳年上の従兄弟MF中島翔哉(現・ポルト/日本代表)と共にサッカーを始め、小学校入学と同時に同じチームへ加入。毎朝早く学校へ行き、校庭でボールを蹴るのが日課だった。4年生になると、小池は先に入団した中島の後を追い、東京ヴェルディジュニアのセレクションを受験した。しかし結果は不合格。同時期に受験していた横河武蔵野FCジュニアへ入団することが決まった。多くが小3、中3、高3、大3~4時に新チームのセレクションやスカウトの話を受ける。横河武蔵野FCジュニアに所属していた選手たちも、小学6年時になるとジュニアユースへの昇格か、他チームへの移籍を模索するかの帰路に迫られる。小池も例にもれず決断を迫られたが、チームに来ていた案内に目を奪われた。

閉ざされたドアの向こうにあった新しい「何」か

 2008年4月小池は「JFAアカデミー福島」を選択していた。新進気鋭のチームであり、小池は3期生として入団した。中高一貫教育の全寮制、6年間親元を離れて生活することに対しては「不安はなかった、楽しむ気持ちのほうが強かった」と語る。入学後すぐ「オスグット(成長期に起こりやすい膝の炎症)」にかかってしまう。1年間の離脱を余儀なくされ、十二分な形で試合復帰できたときには中2の終盤に差し掛かっていた。そこから1年着実に成長を遂げたが、またしても試練に襲われる。

 2011年5月、高校1年生となった小池は静岡県にいた。2011年3月11日東日本大震災で被災し、福島県内で活動していたチームはどうなるかわからない状況に追い込まれた。5月に御殿場で再開できたのも奇跡的だったが、チームは福島県内の被災された方々の分まで背負った。高2でプリンスリーグを制した彼らは翌高3時にプレミアリーグEASTへ初昇格すると、3位に入るほどまで躍進を遂げる。
 同期のMF金子翔太(現清水)、MF安東輝(現松本)、FW平岡将豪(現いわきFC)らがプロ入りする中、小池にもヴァンフォーレ甲府から練習オファーの声がかかる。しかし、プロとしての声はかからなかった。

自己のサッカー観を形成した山口での時間

 2014年春、小池の姿は山口にあった。Jリーグを目指したが彼は一つ賭けに出た。JFLしかもJFL1年目のチームに、アマチュア契約で加入。月給は15万円で生活していくには足らず、スクールのコーチなどでプラスの収益源を確保した。その中で1年目からポジションを得ると、17試合に出場した。J3の機運もあり、J参入を目指すチームや地域の声も後押しした。レノファ山口はJFL参戦1年目にしてJ3参入要件をすべて満たし、なんと1年でアマチュア最高峰リーグを卒業した。

 2015年アマ最高リーグを1年で卒業する偉業を成し遂げたチームに、またしても新たな若者たちが揃った。それでも、初戦のガイナーレ鳥取戦の開幕ピッチに立ったメンバーは11人中9人がJ初出場となる選手たちだった。ただ、恐れを知らぬ若者たちはこの年のJ3を席巻。加入初年度の昇格と優勝、96得点、得失点差+60、得点ランキング上位席巻…。
 金字塔を打ち立てた伝説のメンバーの中に、高卒2年目のアマチュア契約、RSB小池龍太の名前もあった。30試合出場1得点、スターティングメンバーに名を連ねて。小池の他にも、後にJ1クラブに昇格したMF島屋八徳、MF福満隆貴、MF小塚和季に加え、圧倒的な得点力で牽引したFW岸田和人、MF鳥養祐矢、後に京都で集結することとなるMF庄司悦大、DF宮城雅史、SB黒木恭平など多彩なタレントが顔を揃えた軌跡のチームでもあった。

 2016年、3季連続のステップアップを果たしたチームは遂にJ2までたどり着く。小池は遂にプロ契約へ以降し、伴侶を得ることなった。全42試合に出場したが、さすがにチームのJ1昇格はならず。圧倒的な快進撃を見せたチームのメンバーそれぞれに、J1・J2含め多数のクラブからオファーが届くこととなった。

代表組伊東純也、中村航輔との出会い

 2017年山口を離れた小池は、柏レイソル戦へ移籍した。2012年高校プリンスリーグを戦っていた彼は、高校プレミア、JFL、J3、J2を経て、遂にJ1までたどり着いた。しかし、スタメンとしての獲得ではなく、あくまで控えとしての立場だった。それでも、キャンプやカップ戦での出番を皮切りに徐々に信頼を獲得し、結果として32試合出場を果たした。ACL出場権獲得の原動力ともなった。また同年5月にはついにピッチ上で従兄弟であるMF中島翔哉との対戦が実現した。しかし2018年、途中から流れが変わったレイソルはまさかの降格。2019年をJ2で戦うことを強いられた。同年シーズンオフには、ドイツ・ブンデスリーガのブレーメンから獲得意思を示されるも小池は残留。そして今夏、ベルギーのロケレンからオファーを受けた。  

足を止めることのなかった小池のステップ

2011 プリンスリーグ東北2部
2012 プリンスリーグ東北1部
2013 プレミアリーグEAST
2014年JFLレノファ山口 アマ契約17試合出場 月収15万円 昇格
2015年J3レノファ山口 アマ契約30試合出場1得点 優勝 昇格 得点96 得失+60
2016年J2レノファ山口 プロ契約42試合全試合出場3得点 結婚 個人昇格
2017年J1柏レイソル 32試合出場/5月14日vsFC東京戦でいとこ対決実現
2018年J1柏レイソル+ACL 32試合出場+ACL4試合出場 降格
2019年J2柏レイソル
2019年ベルギー2部ロケレン←NEW!

3年スパンの移動、ロケレンも3年契約

 東京で生まれ、福島、静岡、山口、柏と3年スパンで移動してきた小池が次に向かう先はベルギー2部のロケレンに決まった。ロケレン側が提示してきた契約年数も3年、まるでここまでの小池の成長を把握したかのような年数だ。
 プロを夢見た男は、プロになれない位置からのスタートを強いられた。「僕はいつも下から這い上がってきた」の言葉のとおり、毎年のステップアップを繰り返し、遂に欧州の舞台へ降り立つ。ベルギー有数のクラブの一つでもあるロケレンは来季1部に返り咲く可能性も高い。国内だけでなく海外でも、ステップアップし続け、どこまでの高みまで到達するか。
 諦めずに自己研鑽と成長意欲を止めなかった結果、高校1年時から毎年8段階のカテゴリーアップに成功している。ビッグステップが全てではない。彼の活躍は、我々の日常の目標設定や仕事・勉強のあり方さえも見つめ直させてくれる。
”いろんなところにターニングポイントはありますが山口に行ったことが一番大きかったと思います。現実とは違うことを思い知らされたし、だからこそ、ここまで来れたんだと思っています。あの決断を下したことが、間違いではなかったと、今となっては思えますね”ある時Jリーグのインタビューに答えた小池の言葉は、昔から今まで一貫して前だけを見つめていた。

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