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【和田昌士と遠藤渓太】見つめ合う互いの背中~壁を打ち破った7月27日~

【和田昌士と遠藤渓太】見つめ合う互いの背中~壁を打ち破った7月27日~

 日産スタジアムにホイッスルが響き渡ると、6万5千を超える割れんばかりの歓声が包み込んだ。トリコロールのユニフォームに袖を通した横浜F・マリノスの選手たちに対峙したのは、プレミア王者のマンチェスター・シティ。ポステコグルー新監督のポゼッションサッカーに馴染んだ選手たちは、臆することなくホイッスルと同時に駆け出した。それと同時刻、秋田県秋田市にあるソユースタジアムのピッチに一人の選手が投入された。
 今日のお話は「遠藤渓太」と「和田昌士」、幼馴染の二人が歩んできた道のりとは。

確立されていた二人のスタイル

 互いの実家は歩いて10分程度、小学校からの同級生は二俣川SCやマリノスのスクール、ジュニアユース、ユース、トップ昇格まで経歴を同じくする。中央に陣取る、おっとりしているが親分肌なMF和田昌士がパスを供給し、やんちゃで足の速いFW遠藤渓太がディフェンス裏へ抜ける。この形が確立され、チームは二人のコンビネーションを中心とした攻撃戦術で試合を制すようになっていく。しかしその中で、上の学年へ飛び級で入るなど、注目されたのはいつも和田だった。局面単位で見せる縦横斜めやショート、ロングを織り交ぜたパスやドリブルでの突破・剥がし、優位性を必要とする局面で質、数、技術で攻撃陣に多くの栄光をもたらした。周りを動かすことのできる選手はいつだって尊ばれる。和田は、国内だけのレベルに留まらなかった。高校2年の8月、マンチェスター・シティから練習参加のオファーを受けた。現地メディアからは「ダビド・シルバ2世」と称されるなど、将来を有望視された。マリノスの中だけの話ではなく、国内のトップ…いや、海外でもトップランクに近い評価を和田は得ていた。
 
 のちに「あのときは怖いもの知らずだった」と語った和田は「トップチームのトレーニングではのびのびとやらせてもらって自信になったこともあった。自分のことは同世代で”別格”だと思っていた。だって”別格”じゃないとその先のプロには進めないじゃないですか」そう発言させた裏には、どんどんとスピードを獲得して怖さを持ち始めてきた遠藤渓太の存在があった。「ケイタには負けたくない、それはずっと昔からあったものなんで」

目標から遠ざかるのはいつも「自分」

 多くの人が目標達成を目指す際に待ち受けるのは、「壁」だ。その壁は局面で内容は変わるものの、毎度その壁を用意しているのもまた自分だったりする。世代屈指のタレント和田昌士もまた、知らず知らずのうちに壁にぶつかっていた。

 2015年6月、和田と遠藤が高校3年となった学年でのクラブユース選手権U-18関東予選の本大会進出を決める試合で、和田は精彩を欠いた。監督から試合後に落とされた雷も、和田の耳には届いていなかった。シティに留学して、トップの練習に参加して、そんなものか。彼の特徴でもあるパス、それはピッチ全体を見渡すことができる視野に裏打ちされたものだった。自分に向けられた叱咤すら耳に届かないほど、周りが見えなくなっていた。追い打ちをかけるように怪我に見舞われたのはそんなときだった。心のすきが怪我につながるといってもいい。足首の捻挫で、本大会には間に合わないとの診断を受ける。「俺キャプテンなのに何やってんだ」いつも周りを向いていた目は、自分だけを見つめていた。

 呆然とする病院へ、遠藤渓太がお見舞いにきた。
「俺、得点王になってくるよ」

遠藤渓太の眼前にあった「壁」

 副キャプテンが、怪我のキャプテンを安心させるための言葉だ。幼馴染の関係性の為せる業とも言える。ただし、これはフィクションではない。遠藤もまた悩んでいた。
「このままではトップチームへ上がれない…、進路を…大学進学への進路をかけて臨もう」
自分で見ていて分かっていた。高校3年になってからは別格のパフォーマンスが続いていた。それまではどこか臆するところやレベルとして、チームに絡めない瞬間もあった。高3になってからは違う。それでもトップへの道は遠いとわかっていた。だって最も近くのライバル和田昌士でやっとトップ。自分が絡めるレベルでないのは、分かっていた。

 チームのため、和田のため以上に、自らを奮い立たせるような発言だった。ただ、自分の意識だけの土壌に様々なものが乗っかった。責任感の強烈な目的意識が芽生えたやんちゃ坊主は、主将不在の中でグループステージ5得点。後に「意識が変わった」と自身の状況を解説した遠藤は、このグループステージ後に目標設定を訂正する。

「俺、得点王とMVPになってくるよ」

 大宮ユースとの決勝の舞台には、遠藤とともに和田の姿もあった。結果は5-3でマリノスが勝利した。怪我を回復させて戻ってきた和田の得点も生まれたが、決勝戦でも光ったのはやはり遠藤だった。この日3アシストで優勝に貢献し、大会を通じては7得点。6得点のMF森晃太(当時・名古屋ユース、現・甲府)や4得点のFW菅大輝(当時・札幌U-18、現・札幌)らを退け、有限実行で得点王を奪取し、MVPも獲得した。
 松橋力蔵監督は「この夏の大会において、爆発的な成長を遂げた。似たような(タイプの)選手はいっぱいいると思うけど、試合を決められるとか、相手をひとりはがせるとか、そういうプレーヤーがとても重要。シュートブロックの部分でもあそこで止められるか、止められないかが試合を左右する。そこではFWだとかDFだとかは関係ない」と高評価を与えており、精神的支柱や幼馴染的な拠り所でもあった和田不在が一つ、覚醒へのきっかけになったのではないかという考察が当時から記事になるほどだった。

超えた壁の先にあった世界

 「指定校推薦」の可能性が最も高かった遠藤のもとには、多くの大学からスポーツ推薦で獲得の声が多く訪れるようになった。そして、クラブユース選手権から1ヶ月後、ついにトップチームからの声がかかった。

 2016年、和田昌士と遠藤渓太は共にトップチームへ昇格を果たした。そして遠藤渓太はリーグ戦第3節で出番を掴む。開幕2戦で勝てず悪い流れが漂い込めていたチームに合って、一つのカンフル剤として先発起用されたのがルーキーの遠藤だったが、この3月14日の第3節新潟戦で今季初勝利を飾る。起用が当たったと見込まれた遠藤はその後もコンスタントに起用され続け、4月30日にはA契約に移行し、ルーキーイヤーでリーグ戦23試合に出場した。対する和田はカップ戦の初戦で出場機会を積むも、リーグ戦デビューは10月。あれだけ開いていた差から、いつしか追いかける側と追う側と立ち位置が変わっていた。
 2017年、遠藤渓太はU-20W杯のメンバーに選出され、秋に行われたAFC U-23選手権でも出場機会を掴む。一方の和田はJ2レノファ山口にレンタル移籍。周りを見続けていた男が自分との対話の時間を続けた。遠藤の活躍を素直に喜べない時期もあった。「立場が逆転した」「和田はもう落ちぶれた」「早熟だったか」当時から今に至るまで、彼に対するコメントとしてこのように書かれることを受け入れられずにいた。『お前も頑張らなきゃな』励ましと説くコメントも、本人にとっては反発したくなるものに聞こえる。受け入れたのもまた、『遠藤渓太』のことを考えたからだ。「ああ、あいつはずっと、こんな感情のままで過ごしてきたのか」次は、俺の番だ。
 2018年、和田がマリノスに戻ると、遠藤はチームの主力となっていた。そして、この2018シーズン内で和田はリーグ戦の出場機会を得ることができず、ルヴァン4試合、天皇杯1試合の出場でシーズンを終えた。遠藤は27試合に出場するも、攻撃的なポジションにも関わらず、2ゴール。アシストこそプロ初アシスト含めて3と、攻撃の関与性を増やしたものの、物足りない数字を残した。
 2019年、和田は秋田へレンタル、遠藤は引き続きマリノスのスタメンとなる。

辿り着いたマンチェスター・シティ

 2019年7月27日、19時半を少しまわった頃、横浜F・マリノスはホームにプレミアリーグの王者マンチェスター・シティを迎えた。FWスターリングやMFケヴィン・デ・ブライネら、主要メンバーがのラインナップに対して、マリノス側も当然主力。MF遠藤渓太もスターティングラインナップに名を連ねた。時を同じくして、18時からブラウブリッツ秋田のホームスタジアムであるソユースタジアムでは秋田vsいわてグルージャ盛岡の試合が行われていた。まさに同時刻の19時半すぎ、途中交代でMF和田昌士がピッチへ投入された。
 そして、遂にその瞬間が訪れる。前半23分、遠藤渓太がマンチェスター・シティから得点を奪ったのだ。幼馴染がたどり着いた場所である「マンチェスター・シティ」から自身の課題点でもあった「得点」の結果を示してみせた。
 ほぼ同時刻、秋田は右からのコーナーキックを得た。キッカーはMF和田昌士。蹴り上げたボールをDF千田海斗がヘッドで決めた。ユース時代、周りを使うことに長けた男の、プロ初アシストだった。

 2019年8月24日、名古屋グランパス戦で2得点をあげた遠藤は、これでシーズン3ゴール6アシストと得点関与面でシーズン自己ベストを叩き出している。対する和田も、同時点で3ゴール1アシストと自己ベストを記録している。
 互いに立つピッチは異なる二人、遠藤渓太と和田昌士の二人はカテゴリーも所属チームも異なる。会うことは、オフに横浜へと戻ったときのみ。しかし、彼らは同じ空の下で、互いの背中を見ながら今も互いと自分を、追い越し続けている。

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