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理論型ハートドリブン監督・城福浩の決断力 と「決別する覚悟」

理論型ハートドリブン監督・城福浩の決断力 と「決別する覚悟」

 2019年8月17日アウェーFC東京戦の後半12分、MF青山敏弘が投入された。アジアカップでの負傷以降戦列を離れていた彼を東京戦での本格復帰させるため、リーグ戦2試合前の札幌戦から試運転を開始させていた。
 投入から3分後、その青山が起点となり、最後はLWB柏好文がゴールを決めた。しかし、柏に笑顔はなかった。あと30分。1年前の9月22日、終盤戦大失速の原因をつくったFC東京戦に勝利することがこのチームの成長と時を進めるは全選手・スタッフがわかっていた。そしてサンフレッチェ広島指揮官・城福浩にとってもまたこの試合は特別な一戦だった。

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学生年代からビジョンを描いた決断力

 1961年3月21日、徳島県徳島市に誕生した城福浩は、実兄城福敬(現・仙台育英高校サッカー部監督)の影響でサッカーを始めた。サッカー専門誌をボロボロになるまで読み込み、そのほとんどを頭に叩き込むほどのめりこんだ。同県内で秀でた才能たちが強豪・徳島商業高校を目指す中、彼は大学進学を志望し、県立城北高校へ進学した。この頃には既に、周りに流されるようなこともなければ、自分に確たる考えや指針が形成されていたと窺える。
 高校時代には、徳島県代表として国体に二度出場し、その際のプレーが松本育夫(1979ワールドユース選手権日本代表監督)の目に止まる。3年時、FIFAワールドユースに向けた日本代表候補に選出された。
 まだプロもない時代。目標であった早稲田大学へ進学し、ア式蹴球部に属することとなった。今でこそガッツポーズやジャンプなどのアクションや存在感から大柄に思われることも少なくないが、167cmの小兵であることから、攻撃的MFのしかもトリックプレイを多用する異端派として知られた。原理原則や調和を重んじる風潮もまだ多く見られた当時ではあったが、宮本征勝監督から重用され、全日本大学選手権での準優勝にも貢献した。

マネジメント迷走型の決断に対するアレルギー反応

 1983年、早稲田大学を卒業して富士通へ入社すると、川崎フロンターレの前身である同社のサッカー部で、主にMFとしてプレーした。プレースタイルは大学時代同様ファンタジー溢れるプレーで鳴らしたが、根本が理論派であり、大学、社会人時代とも原理原則やプレーの根幹に関しては選手ながら言語化に取り組み続けていた。しかし主将として臨んだ1989年の第17回JSL2部で西野朗擁する日立に敗れてしまう。これで1部昇格を逃したことを機に、28歳で現役を退く。以後は社会人クラブ(エリース東京)でもプレーした。
 引退後しばらくは、一般職として社業に携わるも、かつてのチームメートであり、指導者として富士通サッカー部に残る沈祥福の希望もあって、1993年に業務命令で同部コーチに就くこととなった。当時の活動は福利厚生の一環に過ぎなかったため、コーチだけでなく、ホペイロ業(用具の準備)やマネージャー等も兼務していた。2年後の1995年末、城福が富士通川崎フットボールクラブ監督に就任すると、にわかに状況が慌ただしくなった。翌年秋、チームはJリーグ参入を表明。城福は監督留任を望んだが、まだS級ライセンスを保持していなかった。プロ契約の監督を迎え入れるチーム方針を選択したチーム方針に嫌悪感を示し、退任した。道半ばとなった城福は、サッカーと決別する覚悟でチームを去った。

それでも、サッカー界が城福を手放さなかった。

 「丸いものを見ることすら嫌だった」と城福が後に語ったほどだ。不退転の決意でサッカー界と決別した彼は、脇目も振らず社業に勤しんだ。既に30代半ば、マネジメント職も経験。仕事の一部では、会津若松工場の総務部勤労課長として工場統合の実行責任者を任された。会社史上最年少の課長であり、企業人としての会社から期待もされた。スタッフのリストラを宣告する業務なども行った。疎まれることも、心無い言葉を聞くこともあったが、「サッカーには戻らない」その想いが仕事へのアクセルを踏ませた。
1997年8月、社業専念から約半年後、東京ガスサッカー部(現FC東京)強化担当の鈴木徳彦から連絡を受けた。

「うちのチームの立ち上げを手伝ってくれないか」

青天の霹靂でも、念願のポストでもない。不退転の決意で離れたサッカー界からの再オファーだった。彼は悩んだ。期待をかけてくれる会社への恩義も感じたが、悩んだ末に「Jリーグの発展に寄与、サッカー界への恩返しが出来るならば」と決意し、翌年富士通を退社した。FC東京の設立準備組織に参画しつつ、S級コーチ研修に参加し、同年に資格を取得。学生年代から際立っていた言語化やプレーモデル、チームビルディングの術、何よりも多くの観点からサッカーに視点を向けられる城福の才を鈴木は見抜いていた。
「出世の道を阻むようで申し訳なかったが、サッカー界にとって埋もれさせるには勿体無いと思った」
サッカー界から去ったが、心はサッカーにあった。だからこそ彼は目を背け、心を別の場所に置こうと試みた。ただ、サッカーの神様もまたその才能に気づいていた。

息子と同世代の選手たちの教育

 1999年、プロ化したFC東京にて育成部門の統括に就いた城福はまず、チームの環境整備に従事した。U-15・U-18といったユース年代の強化や、小学生チームを保有していないことによる営業活動としての、小学生チームとの連携に注力した。しかし城福の存在を放って置かなかったのはFC東京だけではなかった。FC東京に在籍したまま日本サッカー協会(JFA)に出向し、ナショナルトレセンコーチやワールドユース選手権でのスカウティング、ジュニアユース・ユース年代の日本代表監督を歴任するなど、精力的に若年層の指導を行い続けた。
 2004年、FC東京U-15むさしの立ち上げのため、一時的に協会から離脱していたが、2007U-17W杯を目指すチームの監督として招聘され、翌2005年よりU-15(後にU-16,U-17)代表監督に就任した。本世代と同い年の息子を持つ親として「ろくに家にいなかったから息子のことを見てやれなかった」と後に語った発言から、もしかすると息子との間接的コミュニケーション、愚直に一つのことに邁進する姿を伝える手段だったのかもしれない。
 仕事に取り組み続け、2006年のAFC U-17選手権では優勝を達成。FW柿谷曜一朗やMF水沼宏太らを擁して、U-17W杯出場を掴んだが、一次リーグ敗退に終わった。しかし城福にとってU-17代表監督としての2年半は、自身の指導者としてのサッカースタイルを確立するものとなった。
 しかし、監督として、サッカー人としての名を高めていく「城福浩」の「息子」は反面でプレッシャーを感じ、サッカーから離れてしまうことになった。

ムービングフットボール

 代表監督の任を終えた直後にFC東京へ戻った城福は、トップチームを管轄する強化部へ配され、さらに2008年よりトップチーム監督に就任することとなった。攻撃的な戦術として『ムービングフットボール』を掲げ、縦に速いサッカーを続けてきたチームに、パスを繋ぎボール保持率を高めるスタイルを丁寧に植え付けた。同年はシーズン終盤まで優勝の可能性を残した位置での戦いを続け、チームを年間6位、天皇杯ベスト4と結果を残す。
 翌2009年も好調を維持させ、リーグ5位に加えてナビスコカップを制し、チーム5年ぶり、自身初のJリーグタイトルを手にした。2010年は、退団あるいは負傷離脱した選手の穴を埋めきれずチーム再編を果たせないまま、9月にはJ2降格圏の16位にまで落ち込み、同月19日をもって解任された。この頃から彼が掲げた『ムービングフットボール』の名を揶揄する言葉も目立つようになった。「理想主義の戦術家」、勝利や結果以上に彼自身が招いたものではない敗戦にも、疎まれるような言葉が見受けられた。

堅守速攻型新モデルの確立

 指導の現場を離れたあとは約1年間メディアの論客として解説等に務めると、2011年11月にJ2ヴァンフォーレ甲府監督に内定した。しかし、選手慰留の時間は無く主力選手が複数退団してしまう。出だしから窮地に追いやられたものの、2012年から甲府の指揮を採り、同年リーグ戦24試合不敗というJ2記録を打ち立てて、J2優勝及びJ1昇格を達成した。翌2013年シーズン前半は振るわなかったものの、後半戦からの3バック転換で活路を開き、堅守型としてチームを立て直した。同様の流れで堅守速攻型のモデルを築いた2014年は既存戦力を活かしてクラブ史上最高位でのJ1残留を果たした。順調に見られたキャリアだが、契約延長の打診を固辞し、フリーの立場で上位クラブからのオファーを待った。
 複数オファーを受ける中、FC東京再任を選択し、2016年から指揮を執ることに。クラブからは同年発足のセカンドチームをトップ強化に繋げられる指導者としても期待を託されており、10年前に自身が組織したU-15、U-18とトップの間にできたU-23のケアも行いながらを扱いながら好成績を目指すという難題に取り組んだ。フロントも、この取組を任せられるのは城福しかいないとわかった上でのアクションだった。
 前年までの堅守をベースとしつつ、前回の東京での指揮や甲府での成功体験を元に、攻守で主導権を握る戦い方を浸透させようとしたが、得点が伸びず1stステージは9位。2ndステージに巻き返しを期したが、第5節までに2試合を逆転負け、2試合を完封負けで落としたことが決定打となり、7月末に解任が決まった。「天空の青と深海の蒼、共に自分しか見えない光景だった」と独特の表現で語ったこともある。

共闘した仲間と、教え子たちはわかっていた

 2017年、13年ぶりにJFAへ復帰した城福は、かつてしのぎを削った西野朗らと共に業務に励んだ。一度サッカー界と決別した際は精を出した取り組んだデスクワークにもどこか身が入らない。MF本田圭佑、FW岡崎慎司、MF香川真司らがクラブのスタメンでなくなり、サッカー界に冷たい風が流れていた。それでも8月、ハリルジャパンがオーストラリア相手にFW浅野拓磨、MF井手口陽介のゴールで勝利を収め、ロシアW杯進出を決めると、にわかに活気が戻ってきた。しかし、秋口の欧州遠征で結果を残せなかったハリルホジッチに対する不信感がメディアや協会内に噴出し始めた頃、城福のもとに2つのオファーが舞い込んだ。
 ひとつがサンフレッチェ広島だった。近年、ミハイロ・ペトロヴィッチや森保一体制下で結果を残したクラブも、主力の移籍や年長化で下降線をたどっていた。そのクラブの主力格に成長した甲府時代の教え子、WB柏好文、DF佐々木翔、MF稲垣祥らの選手たちの声がフロントを後押ししたオファーだった。快諾した城福は、早稲田大学時代からの友人であり、共に2016年7月FC東京から解任されたフィジカルコーチの池田誠剛に連絡した。
 FC今治に在籍していた彼に連絡し、話を伝えた。共に再起を誓った二人の広島行きは決まった。
「城福は僕の親友です。そして何よりも、素晴らしい監督だと思っています。この男に対して正当な評価が為されなければ、日本の未来はない。それほどの指導者なんですよ。だから僕は思ったんです。城福が一流の監督として認識されるための手助けをしたい。彼が日本を背負うべき監督なんだと周りから認知されるために一肌脱ぎたい、と。FC東京を辞めた時からずっと、城福を男にしたいと思っていたから」
 池田は今治の社長、岡田武史に「城福と一緒に広島に行きたい」と申し出ると、早稲田大学の1つ先輩である岡田は肯定の返事で返した。
 どこまでも一本気な男の交渉術はいつだって直球だった。前回の東京での旅路も、香港代表の任に就いていた池田をヘッドハントし、ジェフ千葉でコーチを務めていた小倉勉がほしいと当時の監督イビチャ・オシムに直談判したこともある。「日本のためを思えば、彼をおまえのところで働かせるのもいいだろう」という言葉をもらったこともある。
 一度はサッカーから退いた身、富士通に恩義を感じながらも自分の信念を貫いた経験、多数のリストラで工場統合と会社の利益や本分を守り抜いた過去、全ては与えられた職務を全うしたい気持ちだった。

心のマネジメントへ辿り着いた境地

 2018シーズンのスタートは座礁から始まった。1月末の始動も、広島では大寒波に襲われ、開幕前に5-6週間程度を要するメニューはどうしても開幕に間に合わない。そこで城福は決断を下す。チームが出来上がるまでの期間に関して「敗戦でも仕方がない」と視座を示した。
 札幌、浦和、鹿島、磐田、川崎の5戦で1勝2分。しかし、その期間内にメニューをこなせば必ず結果はついてくる。照準は夏に合わせる。フロントも選手たちもこの言葉を信じた。実際、オフシーズンの強化試合や練習試合は全敗。それでも明確だった指針のおかげか、序盤の5連戦を4勝1分の好成績でスタートすると、4/25のアウェイFC東京まで9戦8勝1分で進んでいた。
 半年前の職務など忘れるほど、目の前の仕事に没頭していた。ロシアW杯では西野ジャパンが躍動していた。夏が過ぎ、対策され始めるチームをいかにマネジメントして、トップに立たせるかの解決法を考えていた。3度の優勝を経験したチームの功労者たちの数値が向上しない、フィジカルの強度の想定より下回っていた。
 結論は4バックから、3バックへのモデルチェンジとベテラン陣をスタメンから変更することだった。これをMF青山敏弘が固辞した。城福体制初めての反抗だった。

「気持ちはわかります、ただ今のメンバーで戦わせていただけませんか」
「このメンバーで、いけるところまでいってみたいんです」

城福は、自身の考えを収め、たとえ優勝できなくても、主体的に動く彼らの姿を見届けた。

 同時期9月22日のFC東京戦の翌日、城福の姿は東京にあった。一時、サッカーをやめた息子の結婚式だった。父の姿を感じることのなかった息子だが、メディア側から携わる身としてサッカーに戻ってきていた。誰よりも泣き、誰よりも笑顔に息子の晴れの舞台を見守った。
 25節を境に一勝もあげられなくなった広島は優勝を逃す。MF青山敏弘は責任を感じたものの、城福が全責任を背負った。最終節の札幌戦で3バックにトライし、ドローでシーズンを終えた。

ハートドリブンコミュニケーション

 2019年8月17日、アウェーFC東京戦の後半12分、MF青山敏弘が投入された。アジアカップでの負傷以降戦列を離れていた彼だが、負傷だけが問題ではなく、前年の責任を悔いる瞬間も少なくなかった。だから決意の吐露から約1年後に行われる東京戦でチームの時計の針を進ませようと試みた。青山の本格復帰照準も含めて。
 WB柏好文のゴールを守り抜いたチームは勝利を収めた。城福の表情もこころなしか、普段よりも笑顔だった。息子の晴れの舞台から一年、祝いの勝利を1年越しで届けることができた。
 単純に勝つのではなく、戦術的な理論武装や、綿密かつ細部まで精錬された練習メニュー、それだけでなく動機も含めたハートドリブンな視点も持ち始めた。もう理想だけを追求しているわけではない。チーム経営やお金周りも把握した中での現実的な取り組みを行っている。未だにギラギラしている城福だが、眼前のあらゆるものと向き合い、受け入れるようになった。そんな彼のシーズンオフの楽しみは息子とサウナに行くことだそうだ。子供の頃にかわせなかったコミュニケーションと時計の針を、彼は今楽しんでいるのかもしれない。

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